なんとバカな?!

 なんとバカな?!

 

慶応大学での日本アニメ史講義「静止画の時代」の授業が今年で9年目だと思い込んでいました。ちゃんと数え直すと、なんと!10年目でした! たんなる数え間違いだよ、3歳児にも笑われるぞ。

しかし、そんな茶番をよそにアニメの歴史は、「手描きアニメの終焉」を告げる重要な年となりました。

個人的な10年周期に、歴史の方がケジメを付けてくれていたようです。よしっ!これを10年目の重要な節目ということにしよう!。

と、都合のいいツジツマ合わせをして、3歳児に笑われないよう備えました。

 

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「アニメ静止画論考」の追加事項

 

留学生を対象にした日本アニメ史講義「静止画の時代」から省いた1章があります。

前提となる当時の日本のアニメ業界の特殊な状況と時代背景を限られた時間で留学生たちに説明するだけの自信がないからです。しかし、日本のアニメ研究家には参考になるかもしれないので書き残すことにしました。

 

TVアニメ誕生と混迷混沌の時代が始まる

1963年、漫画家、手塚治虫がTVアニメ「鉄腕アトム」を公開。全世界が不可能と判断した週建てのアニメ製作と放送。それが実現した。視聴率は驚異的な跳ね上がりを見せ、雨後の竹の子のようにアニメ製作会社が出現した。

当時アニメ会社は劇場用長編アニメーション専門の東映動画1社のみで、アニメーターの数には限界があった。手塚治虫は虫プロダクションを設立。全国規模で集まった漫画家の卵たちをアニメ―ションに振り向かせた。

私がかかわりのあったプロダクション東京ムービーは資金繰りからアニメ制作を余儀なくされていたが、もともとは人形劇映画を撮るための会社 東京人形シネマだったから、人形劇演出の専門家はいたが、アニメーターにも漫画青年たちにも縁がなかった。

どの会社もアニメーターの絶対数の不足に悩んでいた。

 

 

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肩で風を切る漫画青年たち

 

アニメ―ションの経験がなくとも漫画が描ければなんとかなった。それに現実には絵を動かす時間も経費もなかったから、漫画が描ければ仕事になった。コマ割り漫画を描くように動かない映像が分業で量産された。

枚数の制約とはいえ画面は止まり過ぎた。映像的に絶対止めてはならない動きの頂点を、あえてコマ止めにして、内容に関係のないカッコよい絵を競い合った。それは、もう「漫画」ではあっても、「映画」ではなかった。

東映動画には実写部門から移籍した助監督たちもいて、漫画のコマ割りをそのまま映像に持ち込む方法には抵抗があったが、もともとTVアニメには消極的だったこともあり、映画文法的な反論も、強い自己主張もなかった。

 

 

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「オバケのQ太郎」で秘かな楽しみ

 

劇団からやって来た気楽なアルバイト監督だった私は、通常の映画制作と比べアニメはまったく異質の作り方だが、映画手法を取り入れたらもっと面白くなるのになぁ、と、ぼんやり考えていたところへ、小津安二郎監督の手法が「オバケのQ太郎]に応用できるのでは? と驚天動地のヒントをくれたのはTBSの担当者だった。

なるほど!確かに「オバケのQ太郎」は派手なアクション以外では、ちゃぶ台を前に会話することが多く、それに子供目線のローアングルで移動しないカメラポジションや、例えば時間経過を表現するのに、国宝級の「壷」の静止画面をポンと数秒入れるだけで時間経過を表現する小津の手法は、そのまんま「オバケのQ太郎」に応用できた。さすがは巨匠! 私と局の担当者は小津ゴッコを大いに楽しんでいた。

 

 

 

人形映画の演出家たちは勉強家ぞろい

 

人形劇と言えばかわいいイメージだが、デモ行進などでは演劇人の先頭を行くカゲキな集団でもあり、ソビエトの世界的名監督エイゼンシュタインの「モンタージュ論」などは演出部員なら誰もがマスターしていた。人形劇団から私の少し後に入社してきた長浜忠夫監督(「伊賀の影丸」や「巨人の星」を演出)は、アニメ経験はなく、私の「オバケのQ太郎]の全作品を集中的に何度も見て「映画文法で作って良いのですね。安心しました」と得心の笑顔を見せ、直ぐに監督業を始めてみせた。

一方、「動かないアニメ」への失望は期待が大きかっただけに視聴率にも陰りが見え始め、アニメ業界のスタッフにも不安が広がりはじめた。「何をどうやればいいのか? 何が間違っていたのか? だれか教えてほしい!」

 

 

アニメに演出家はいない

 

だが、誰も答えられず、だれも責任を取れなかった。ほとんどのアニメ製作会社では、演出家の仕事も、ポジションすら曖昧だった。

はっきりして来たのは、テレビアニメに明確な方法論がないということだった。

「優れた演出家の下にはアニメーターは自然に集まってくるハズだ」。東京ムービーをそんな演出家集団にしたい。と、ある日オーナープロデューサーの藤岡豊が私たち演出家を集めて宣言した。

「君たちのその才能を結集させて私の夢を実現させてほしい!」

と、わかりやすいお世辞に励まされて「アニメ演出を極める」という誇大妄想に近いソーダイなテーマに挑むことになった。

 

 

 

東京ムービー企画室からカフェ「茶の間」へ

 

東京ムービーにはもともと演出室などなかった。企画室長の今泉俊昭監督が兼任して演出家たちを統括していた。因みに東京ムービーでは劇団出身者が多いため監督を演出と呼んでいた。企画室は手狭だったが、現代子ども調査室のメンバーや、新日本文学会の手島修三 たち、新宿アートシアターの森弘太監督や大和屋竺グループなどなど、当時の新宿サブカルとアングラの極左から極右を含むアナーキーな雰囲気は、面白すぎる! とても仕事にならない。

そんな訳で、南阿佐ヶ谷青梅街道沿いの「茶の間」という喫茶店を根城にしたが、結局、企画室で栄養を得て「茶の間」は最後のまとめに使った。多くの監督たちはフリーだったため最終的な「茶の間」メンバーは長浜監督、私、今泉監督の3人だった。が、好奇心と野次馬 を含め、熱心な協力者は多かった。 


 

 

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「静止画メソッド」というテーマに「茶の間」は・・。

 

映画青年の絵空事ではなかった。映画文法とはいっても厳しい枚数制限のなかで映画手法を取り入れるには、先ず静止画使用を前提にしたメソッドを確立する必要があった。その点でエイゼンシュタインの初期モンタージュ論は、動かない絵をカット割りで見せるのに役立ったように思う。コマ割り漫画のようにことさらアクションを選んで止めて見せるのではなく、止まっていても自然に見えるポーズを選んでカット割りを心掛けた。動かないポーズのデーター集めは悩む程の仕事ではなかった。静止ポーズのカットを繋いでストーリーに沿わせた展開をすることも可能だった。とりあえず使命を終え、それはあっという間に業界全体に広がり、奇妙な静止コマは見られなくなった。

しかし「茶の間」の仕事はそれで終わらなかった。私たちには、もう一歩先が見えていたからだ。

それは、人間が精神の深みに入った時、自然に身体行動が停止し、いわば「精神的な溜め」の状態になる。という仮説だ。始めはドストエフスキーなどを例に不器用な説明を展開していたが、格好の素材が仕事として舞い降りてきた。

 

 

 

「茶の間」は仕事の正念場になった。

 

梶原一騎原作「巨人の星」である。この作品にぴったりの長浜監督が名乗りを上げた。彼はすでに新しい静止画論に熱くなっていたのだ。

製作が始まり長浜監督は監督として現場に入ったが、週一度の茶の間会議は続いた。いつも閉店で追い出されるまで静止画論争を続けた。

(このくだりは今の講義でも取り上げているが、当時の私の真剣さが伝わるのか留学生は集中し、毎回、教室の温度が上昇する・・と思う、笑)。

静止画表現の確かな成果は、長浜監督の「巨人の星」によるところが大きかった。

高度成長期の達成を目指した時代、ぶれない精神の主人公は不動でシンメトリーの姿勢にふさわしかった。堪えるポーズは精神主義スポーツ、いわゆる「スポ根」として日本人の感情移入を誘い、爆発的な人気番組になった。

 

 

 

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プロデューサーの夢は実現

 

やがてアニメ業界を背負って立つことになる期待の新人たち、出崎統、吉川惣司、奥田誠治、富野喜好(由悠季)が、演出の勉強がしたいと東京ムービーのドアをたたいた。

特に長浜監督へのリスペクトはすごかった。出崎統は徹底的に精神面の静止画表現を「巨人の星」からマスターし、アクション中の静としてそれを発展させ、「あしたのジョー」を世に送り出した。

残念なことに私への弟子入りを希望する者はいなかった(笑)。が、やがてルパン三世が始まると第1話のコンテを吉川惣司が、第2話を奥田誠治が第3話を出崎統、富野喜幸は「ムーミン」の主力コンテマンとして大いに助けられた。

彼らに共通するのは映画文法を学ぼうというピュアな姿勢で、静止画という条件があっても、漫画コマ割りの応用では駄目だという思いを持っていたように思う。

「優れた演出家の下にアニメーターは自然に集まってくる。

藤岡プロデューサーの願いは達成されたようだ。 

 

2017.12.29

 

 

 

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