2017年

森下圭子さんのムーミン講演会を聞いて考えた事②

トーベ・ヤンソンという作家を、身近に引き寄せようとすればするほどテレビ化には無理が感じられた。

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『小さなトロールと大きな洪水』より


井上ひさしに共感するところはあったが、出版時から私はムーミンという作品に深入りしてしまっていたのだ。投げ出したくなかった。なんとしても番組化を実現させたかった。プロとしても・・。

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いずれも『ムーミン谷の彗星』より

絵一つを例にとっても、ムーミンの湾曲のない長い顔はトーベ・ヤンソンにしか描けない。魅力的だがこのまま表情を付けると長い顔ののっぺらぼうが話すことになってしまうので、アニメの動物を擬人化する方法を使って目の下に湾曲をつくることで、生きた表情表現を獲得。作画上の難点を一つ解決した。

あとはコンテンツと設定である。

分析してみると、ムーミンの魅力には多面性があることが分かった。

例えば原作には北欧の厳しい冬ばかりではなく、期待と憧れ、現実以上の太陽の明るさ、花咲く南欧風の暖かさがあった。

孤独に耐えるキャラクターたちにも、人との触れあいの楽しさがムーミン谷にはあったのだ。

つづく

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森下圭子さんのムーミン講演会を聞いて考えた事①

フィンランド在住のムーミン研究家である森下さんの講演会を先日聞きに行った。

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                     (岸田今日子さんの写真提供:南正時さん)

彼女のトーベ・ヤンソンへの愛情あふれるオマージュを聞いて、およそ半世紀前、テレビアニメ「ムーミン」の制作方針を決定したいきさつを鮮明に思い出していました。

当時、決断したテレビアニメの方向付けが、トーベ・ヤンソンの個性的なもう一つの世界を今日まで守って来たのでは、と改めて気付かされ、私は感慨を覚えたのです。

私が最初に触れたムーミンは個性的な魅力に溢れていたが、とても普遍的とは言えない気がした。

トーベ・ヤンソン固有の魅力、フィンランドの風土との分かち難い個性。陰鬱(モノトーン)で孤独で、そのくせ抵抗し難い透明な楽天性など数多くあった。

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しかし、これらの多くは当時の日本のテレビの常識では歓迎されるものではなく、特にアニメ番組化となると、正直、気が重かった。

 

サンプルとしてに準備稿をあげてきた井上ひさしは徹底したドタバタ劇に仕立て上げてきた。

「だって、おおすみさん〈ムーミン〉の世界をそのままテレビアニメにするなんて無茶ですよ!思い切って変えなくては・・」

と云うのが彼の言い分だった。面白いシナリオだったが、トーベ・ヤンソンの影はどこにもなかった。

 

つづく

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九年目を迎えた静止画アニメ講義

日本のアニメの特徴は絵が動かないこと――。

海外からやってきた留学生を対象に、慶応大学で始めた講義、「静止画表現のアニメ史的な役割」、が今年で9年目を迎えました。

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月並みですがこの9年はあっという間でした。始めた頃は、私の年齢と体力がいつまでもつかを気にしていました。しかし時代の速度は、私の積年速度を追い越すスピードで、「静止画」という課題とともに手描きアニメーションそのものを過去に置き去ろうとしています。


「静止画表現」という主題を変更しなくても、時代に敏感な若者たちの影響を受け、講義の構造は想定外の変化を重ねてきました。

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講義の初期段階では、ディズニーアニメを見て育った留学生たちから、日本のアニメはどうしてあんなに絵が動かないの?という素朴な疑問がだされ、作画枚数の制約は、実は作業時間の制約だと説明し、制作現場の働き手を増やすことで解決出来るのでは?という問いには、大工さんを3万人呼んでも家は3分で建たない。アニメも同じタテ構造作業で成り立っていて、原動画という元の絵が上がらないと色は塗れない、写すモノがないのに撮影を先に済ますことも出来ないと、そこらあたりから納得してもらった。

次の段階になると、日本のアニメをネットで見慣れた学生たちは、作画枚数の制限理由よりも、静止画表現の方法論的な側面に積極的な興味を向けて来るようになります。

そしてこの段階で私自身、今まで見落としてきたアニメ史の一側面を、再考するきっかけにもなったのです。

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「静止画カット」が成立する条件は、先ず止まっていても不自然でない絵であること。当時、こんな当然なことに気付くかなかったのは、アニメーター不足から多数動員された漫画家の卵たちが、絵が動かせないなら、昔からあるコマ漫画の手法――これは鳥獣戯画から現代漫画にいたる「時間を切り取る」という優れた表現手法――を多用し始めたのです。たとえば、人を投げ飛ばした絵が(投げ飛ばされた人は宙に浮いている)動かないまま数秒続く。また、静止した歩くポーズ絵に擬音の足音だけが重なる。

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これらは決して開き直りではなく、コマ漫画の優れた応用だったハズです。それが、映画への応用では逆効果になるとは気付かなかったのです。映画という時間表現の世界に持ち込まれた動かないコマ絵は、流れる時間の中で絵が動かないことがより強調されるという皮肉な結果を招いてしまいました。

「静止画表現」として必要なのは、動作のストップモーションではなく、動かないのが自然に見える身体ポーズだったのです。

この錯覚から生まれた混乱は、僅かな一時期だっただけに映像もあまり残っていないのです。

うっかりアニメ史からこぼれ落とすところでした。気付かせてくれた生徒に感謝しなければなりません。


このように漫画とアニメの関係は私たち専門家の方が見逃しやすく、アニメおたくと自称する留学生の熱心な質問に答えているうちに、半世紀もたって気付いた貴重なアニメ史再確認でした。

動かない方が自然に見えるポーズの追及で、積極的な静止画論が確立するのは「巨人の星」からです。

スポーツ特有の激しい動きを避け、精神的な緊張感が「動きたくても動けない身体表現」として表現されました。「堪える」というポーズが、「スポ根」という静止画の世界を生み出しました。

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緊張した身体が席巻した頃、てその対極にあるリラックスした状態を静止ポーズにしたのは「ルパン三世」でした。プロとしてのスキのない姿勢と普段の脱力ポーズ、緊張と緩和の対照的な二つの静止ポーズが、ポスト「巨人の星」のアニメの静止画表現を決定づけました。スポーツものにもシャープさと脱力の天才型ヒーローが必要になったのです。  

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講義もこの段階に来ると、留学生たちの中に日本の現代カルチャーに強い関心を持つグループがいて、特に60~70年代の変わり目が興味深いらしいのです。私個人としては、手放しで面白がれる時代ではないのですが、確かにサブカルチャーとしては面白い時代でした。そして、正にアニメはこの時期「巨人の星」が高度成長期を受けて立つブレないポーズ集であり、ルパン三世は70年代のシラケ世代のメンタリティを先取りしていた。静止画アニメにもその時代時代に応じたポージングの存在――世はポーズになり、ポーズは世を表す――であることが講義の中で、生徒たちと共に解明されていったのです。

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初めに触れたように、この講義は時代に先を越されてしまいました。

静止画テーマを上回る大きなテーマ、つまりアニメ―ションそのものが大きく変動を遂げようとしています。手描きアニメの終焉です。代わってコンピュータアニメが始まる、いや、すでに始まっています。歴史は戻らない。

やがて静止画表現の苦労などだれも知らない時代が来る。「君たちは歴史の証人になった」と今期の生徒たちに云いました。「昔、アニメは人間が手で描いてたの?」と孫たちに聞かれる時が来ると。  

 

 

※ 本文中で使用の「アニメ」はもとは「アニメーション」を省略したは日本語ですが、現在では、日本独自の発展を遂げたテレビアニメを指す世界共通語となっています。したがって本来の「フルアニメーション」とは区別して使用しています。

 

 

 

2017/05/31

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