2017年

なんとバカな?!

 なんとバカな?!

 

慶応大学での日本アニメ史講義「静止画の時代」の授業が今年で9年目だと思い込んでいました。ちゃんと数え直すと、なんと!10年目でした! たんなる数え間違いだよ、3歳児にも笑われるぞ。

しかし、そんな茶番をよそにアニメの歴史は、「手描きアニメの終焉」を告げる重要な年となりました。

個人的な10年周期に、歴史の方がケジメを付けてくれていたようです。よしっ!これを10年目の重要な節目ということにしよう!。

と、都合のいいツジツマ合わせをして、3歳児に笑われないよう備えました。

 

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「アニメ静止画論考」の追加事項

 

留学生を対象にした日本アニメ史講義「静止画の時代」から省いた1章があります。

前提となる当時の日本のアニメ業界の特殊な状況と時代背景を限られた時間で留学生たちに説明するだけの自信がないからです。しかし、日本のアニメ研究家には参考になるかもしれないので書き残すことにしました。

 

TVアニメ誕生と混迷混沌の時代が始まる

1963年、漫画家、手塚治虫がTVアニメ「鉄腕アトム」を公開。全世界が不可能と判断した週建てのアニメ製作と放送。それが実現した。視聴率は驚異的な跳ね上がりを見せ、雨後の竹の子のようにアニメ製作会社が出現した。

当時アニメ会社は劇場用長編アニメーション専門の東映動画1社のみで、アニメーターの数には限界があった。手塚治虫は虫プロダクションを設立。全国規模で集まった漫画家の卵たちをアニメ―ションに振り向かせた。

私がかかわりのあったプロダクション東京ムービーは資金繰りからアニメ制作を余儀なくされていたが、もともとは人形劇映画を撮るための会社 東京人形シネマだったから、人形劇演出の専門家はいたが、アニメーターにも漫画青年たちにも縁がなかった。

どの会社もアニメーターの絶対数の不足に悩んでいた。

 

 

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肩で風を切る漫画青年たち

 

アニメ―ションの経験がなくとも漫画が描ければなんとかなった。それに現実には絵を動かす時間も経費もなかったから、漫画が描ければ仕事になった。コマ割り漫画を描くように動かない映像が分業で量産された。

枚数の制約とはいえ画面は止まり過ぎた。映像的に絶対止めてはならない動きの頂点を、あえてコマ止めにして、内容に関係のないカッコよい絵を競い合った。それは、もう「漫画」ではあっても、「映画」ではなかった。

東映動画には実写部門から移籍した助監督たちもいて、漫画のコマ割りをそのまま映像に持ち込む方法には抵抗があったが、もともとTVアニメには消極的だったこともあり、映画文法的な反論も、強い自己主張もなかった。

 

 

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「オバケのQ太郎」で秘かな楽しみ

 

劇団からやって来た気楽なアルバイト監督だった私は、通常の映画制作と比べアニメはまったく異質の作り方だが、映画手法を取り入れたらもっと面白くなるのになぁ、と、ぼんやり考えていたところへ、小津安二郎監督の手法が「オバケのQ太郎]に応用できるのでは? と驚天動地のヒントをくれたのはTBSの担当者だった。

なるほど!確かに「オバケのQ太郎」は派手なアクション以外では、ちゃぶ台を前に会話することが多く、それに子供目線のローアングルで移動しないカメラポジションや、例えば時間経過を表現するのに、国宝級の「壷」の静止画面をポンと数秒入れるだけで時間経過を表現する小津の手法は、そのまんま「オバケのQ太郎」に応用できた。さすがは巨匠! 私と局の担当者は小津ゴッコを大いに楽しんでいた。

 

 

 

人形映画の演出家たちは勉強家ぞろい

 

人形劇と言えばかわいいイメージだが、デモ行進などでは演劇人の先頭を行くカゲキな集団でもあり、ソビエトの世界的名監督エイゼンシュタインの「モンタージュ論」などは演出部員なら誰もがマスターしていた。人形劇団から私の少し後に入社してきた長浜忠夫監督(「伊賀の影丸」や「巨人の星」を演出)は、アニメ経験はなく、私の「オバケのQ太郎]の全作品を集中的に何度も見て「映画文法で作って良いのですね。安心しました」と得心の笑顔を見せ、直ぐに監督業を始めてみせた。

一方、「動かないアニメ」への失望は期待が大きかっただけに視聴率にも陰りが見え始め、アニメ業界のスタッフにも不安が広がりはじめた。「何をどうやればいいのか? 何が間違っていたのか? だれか教えてほしい!」

 

 

アニメに演出家はいない

 

だが、誰も答えられず、だれも責任を取れなかった。ほとんどのアニメ製作会社では、演出家の仕事も、ポジションすら曖昧だった。

はっきりして来たのは、テレビアニメに明確な方法論がないということだった。

「優れた演出家の下にはアニメーターは自然に集まってくるハズだ」。東京ムービーをそんな演出家集団にしたい。と、ある日オーナープロデューサーの藤岡豊が私たち演出家を集めて宣言した。

「君たちのその才能を結集させて私の夢を実現させてほしい!」

と、わかりやすいお世辞に励まされて「アニメ演出を極める」という誇大妄想に近いソーダイなテーマに挑むことになった。

 

 

 

東京ムービー企画室からカフェ「茶の間」へ

 

東京ムービーにはもともと演出室などなかった。企画室長の今泉俊昭監督が兼任して演出家たちを統括していた。因みに東京ムービーでは劇団出身者が多いため監督を演出と呼んでいた。企画室は手狭だったが、現代子ども調査室のメンバーや、新日本文学会の手島修三 たち、新宿アートシアターの森弘太監督や大和屋竺グループなどなど、当時の新宿サブカルとアングラの極左から極右を含むアナーキーな雰囲気は、面白すぎる! とても仕事にならない。

そんな訳で、南阿佐ヶ谷青梅街道沿いの「茶の間」という喫茶店を根城にしたが、結局、企画室で栄養を得て「茶の間」は最後のまとめに使った。多くの監督たちはフリーだったため最終的な「茶の間」メンバーは長浜監督、私、今泉監督の3人だった。が、好奇心と野次馬 を含め、熱心な協力者は多かった。 


 

 

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「静止画メソッド」というテーマに「茶の間」は・・。

 

映画青年の絵空事ではなかった。映画文法とはいっても厳しい枚数制限のなかで映画手法を取り入れるには、先ず静止画使用を前提にしたメソッドを確立する必要があった。その点でエイゼンシュタインの初期モンタージュ論は、動かない絵をカット割りで見せるのに役立ったように思う。コマ割り漫画のようにことさらアクションを選んで止めて見せるのではなく、止まっていても自然に見えるポーズを選んでカット割りを心掛けた。動かないポーズのデーター集めは悩む程の仕事ではなかった。静止ポーズのカットを繋いでストーリーに沿わせた展開をすることも可能だった。とりあえず使命を終え、それはあっという間に業界全体に広がり、奇妙な静止コマは見られなくなった。

しかし「茶の間」の仕事はそれで終わらなかった。私たちには、もう一歩先が見えていたからだ。

それは、人間が精神の深みに入った時、自然に身体行動が停止し、いわば「精神的な溜め」の状態になる。という仮説だ。始めはドストエフスキーなどを例に不器用な説明を展開していたが、格好の素材が仕事として舞い降りてきた。

 

 

 

「茶の間」は仕事の正念場になった。

 

梶原一騎原作「巨人の星」である。この作品にぴったりの長浜監督が名乗りを上げた。彼はすでに新しい静止画論に熱くなっていたのだ。

製作が始まり長浜監督は監督として現場に入ったが、週一度の茶の間会議は続いた。いつも閉店で追い出されるまで静止画論争を続けた。

(このくだりは今の講義でも取り上げているが、当時の私の真剣さが伝わるのか留学生は集中し、毎回、教室の温度が上昇する・・と思う、笑)。

静止画表現の確かな成果は、長浜監督の「巨人の星」によるところが大きかった。

高度成長期の達成を目指した時代、ぶれない精神の主人公は不動でシンメトリーの姿勢にふさわしかった。堪えるポーズは精神主義スポーツ、いわゆる「スポ根」として日本人の感情移入を誘い、爆発的な人気番組になった。

 

 

 

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プロデューサーの夢は実現

 

やがてアニメ業界を背負って立つことになる期待の新人たち、出崎統、吉川惣司、奥田誠治、富野喜好(由悠季)が、演出の勉強がしたいと東京ムービーのドアをたたいた。

特に長浜監督へのリスペクトはすごかった。出崎統は徹底的に精神面の静止画表現を「巨人の星」からマスターし、アクション中の静としてそれを発展させ、「あしたのジョー」を世に送り出した。

残念なことに私への弟子入りを希望する者はいなかった(笑)。が、やがてルパン三世が始まると第1話のコンテを吉川惣司が、第2話を奥田誠治が第3話を出崎統、富野喜幸は「ムーミン」の主力コンテマンとして大いに助けられた。

彼らに共通するのは映画文法を学ぼうというピュアな姿勢で、静止画という条件があっても、漫画コマ割りの応用では駄目だという思いを持っていたように思う。

「優れた演出家の下にアニメーターは自然に集まってくる。

藤岡プロデューサーの願いは達成されたようだ。 

 

2017.12.29

 

 

 

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森下圭子さんのムーミン講演会を聞いて考えた事③

それらは、当時のヒッピーたちが理想としたコミュニティにも通じるものがあった。

ワガママいっぱいに自己主張し、でも他人の自由を尊重し、それぞれの役割を守る。賑やかな人たちがいて、静かな人たちがいる。

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構想はどんどん広がり、夢中になってテレビ版をほぼオリジナルのごとく自由に描いた。が、それが結果としてに原作の世界を守ることになった。もとはトーベ・ヤンソンの世界から導き出されたものであったからだ。

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目の下を湾曲させたムーミンの顔もその後のアニメ化で普遍化し、ポピュラリティな側面を代表するようになった。フィンランドのムーミンランドにあるムーミン像にもこの顔のスタイルが採用されているように見える。

そのほかキャラクター関係の明確化、コミュニティ構築、エピソード設定。すべてこれらフォーマットはその後、多くのアニメ化で、踏襲されているようである。

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原作そのままという大義名分で、逆にトーベ・ヤンソンのパーソナリティーを踏み荒らさなかったことに、森下さんの講演に耳を傾けながら、私はほっとしていた。

人は寂しさを紛らわしたいときも、逆に孤独な時間を欲するときもある。ムーミンはその両面を味わうことができる。

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森下圭子さんのムーミン講演会を聞いて考えた事②

トーベ・ヤンソンという作家を、身近に引き寄せようとすればするほどテレビ化には無理が感じられた。

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『小さなトロールと大きな洪水』より


井上ひさしに共感するところはあったが、出版時から私はムーミンという作品に深入りしてしまっていたのだ。投げ出したくなかった。なんとしても番組化を実現させたかった。プロとしても・・。

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いずれも『ムーミン谷の彗星』より

絵一つを例にとっても、ムーミンの湾曲のない長い顔はトーベ・ヤンソンにしか描けない。魅力的だがこのまま表情を付けると長い顔ののっぺらぼうが話すことになってしまうので、アニメの動物を擬人化する方法を使って目の下に湾曲をつくることで、生きた表情表現を獲得。作画上の難点を一つ解決した。

あとはコンテンツと設定である。

分析してみると、ムーミンの魅力には多面性があることが分かった。

例えば原作には北欧の厳しい冬ばかりではなく、期待と憧れ、現実以上の太陽の明るさ、花咲く南欧風の暖かさがあった。

孤独に耐えるキャラクターたちにも、人との触れあいの楽しさがムーミン谷にはあったのだ。

つづく

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森下圭子さんのムーミン講演会を聞いて考えた事①

フィンランド在住のムーミン研究家である森下さんの講演会を先日聞きに行った。

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                     (岸田今日子さんの写真提供:南正時さん)

彼女のトーベ・ヤンソンへの愛情あふれるオマージュを聞いて、およそ半世紀前、テレビアニメ「ムーミン」の制作方針を決定したいきさつを鮮明に思い出していました。

当時、決断したテレビアニメの方向付けが、トーベ・ヤンソンの個性的なもう一つの世界を今日まで守って来たのでは、と改めて気付かされ、私は感慨を覚えたのです。

私が最初に触れたムーミンは個性的な魅力に溢れていたが、とても普遍的とは言えない気がした。

トーベ・ヤンソン固有の魅力、フィンランドの風土との分かち難い個性。陰鬱(モノトーン)で孤独で、そのくせ抵抗し難い透明な楽天性など数多くあった。

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しかし、これらの多くは当時の日本のテレビの常識では歓迎されるものではなく、特にアニメ番組化となると、正直、気が重かった。

 

サンプルとしてに準備稿をあげてきた井上ひさしは徹底したドタバタ劇に仕立て上げてきた。

「だって、おおすみさん〈ムーミン〉の世界をそのままテレビアニメにするなんて無茶ですよ!思い切って変えなくては・・」

と云うのが彼の言い分だった。面白いシナリオだったが、トーベ・ヤンソンの影はどこにもなかった。

 

つづく

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九年目を迎えた静止画アニメ講義

日本のアニメの特徴は絵が動かないこと――。

海外からやってきた留学生を対象に、慶応大学で始めた講義、「静止画表現のアニメ史的な役割」、が今年で9年目を迎えました。

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月並みですがこの9年はあっという間でした。始めた頃は、私の年齢と体力がいつまでもつかを気にしていました。しかし時代の速度は、私の積年速度を追い越すスピードで、「静止画」という課題とともに手描きアニメーションそのものを過去に置き去ろうとしています。


「静止画表現」という主題を変更しなくても、時代に敏感な若者たちの影響を受け、講義の構造は想定外の変化を重ねてきました。

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講義の初期段階では、ディズニーアニメを見て育った留学生たちから、日本のアニメはどうしてあんなに絵が動かないの?という素朴な疑問がだされ、作画枚数の制約は、実は作業時間の制約だと説明し、制作現場の働き手を増やすことで解決出来るのでは?という問いには、大工さんを3万人呼んでも家は3分で建たない。アニメも同じタテ構造作業で成り立っていて、原動画という元の絵が上がらないと色は塗れない、写すモノがないのに撮影を先に済ますことも出来ないと、そこらあたりから納得してもらった。

次の段階になると、日本のアニメをネットで見慣れた学生たちは、作画枚数の制限理由よりも、静止画表現の方法論的な側面に積極的な興味を向けて来るようになります。

そしてこの段階で私自身、今まで見落としてきたアニメ史の一側面を、再考するきっかけにもなったのです。

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「静止画カット」が成立する条件は、先ず止まっていても不自然でない絵であること。当時、こんな当然なことに気付くかなかったのは、アニメーター不足から多数動員された漫画家の卵たちが、絵が動かせないなら、昔からあるコマ漫画の手法――これは鳥獣戯画から現代漫画にいたる「時間を切り取る」という優れた表現手法――を多用し始めたのです。たとえば、人を投げ飛ばした絵が(投げ飛ばされた人は宙に浮いている)動かないまま数秒続く。また、静止した歩くポーズ絵に擬音の足音だけが重なる。

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これらは決して開き直りではなく、コマ漫画の優れた応用だったハズです。それが、映画への応用では逆効果になるとは気付かなかったのです。映画という時間表現の世界に持ち込まれた動かないコマ絵は、流れる時間の中で絵が動かないことがより強調されるという皮肉な結果を招いてしまいました。

「静止画表現」として必要なのは、動作のストップモーションではなく、動かないのが自然に見える身体ポーズだったのです。

この錯覚から生まれた混乱は、僅かな一時期だっただけに映像もあまり残っていないのです。

うっかりアニメ史からこぼれ落とすところでした。気付かせてくれた生徒に感謝しなければなりません。


このように漫画とアニメの関係は私たち専門家の方が見逃しやすく、アニメおたくと自称する留学生の熱心な質問に答えているうちに、半世紀もたって気付いた貴重なアニメ史再確認でした。

動かない方が自然に見えるポーズの追及で、積極的な静止画論が確立するのは「巨人の星」からです。

スポーツ特有の激しい動きを避け、精神的な緊張感が「動きたくても動けない身体表現」として表現されました。「堪える」というポーズが、「スポ根」という静止画の世界を生み出しました。

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緊張した身体が席巻した頃、てその対極にあるリラックスした状態を静止ポーズにしたのは「ルパン三世」でした。プロとしてのスキのない姿勢と普段の脱力ポーズ、緊張と緩和の対照的な二つの静止ポーズが、ポスト「巨人の星」のアニメの静止画表現を決定づけました。スポーツものにもシャープさと脱力の天才型ヒーローが必要になったのです。  

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講義もこの段階に来ると、留学生たちの中に日本の現代カルチャーに強い関心を持つグループがいて、特に60~70年代の変わり目が興味深いらしいのです。私個人としては、手放しで面白がれる時代ではないのですが、確かにサブカルチャーとしては面白い時代でした。そして、正にアニメはこの時期「巨人の星」が高度成長期を受けて立つブレないポーズ集であり、ルパン三世は70年代のシラケ世代のメンタリティを先取りしていた。静止画アニメにもその時代時代に応じたポージングの存在――世はポーズになり、ポーズは世を表す――であることが講義の中で、生徒たちと共に解明されていったのです。

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初めに触れたように、この講義は時代に先を越されてしまいました。

静止画テーマを上回る大きなテーマ、つまりアニメ―ションそのものが大きく変動を遂げようとしています。手描きアニメの終焉です。代わってコンピュータアニメが始まる、いや、すでに始まっています。歴史は戻らない。

やがて静止画表現の苦労などだれも知らない時代が来る。「君たちは歴史の証人になった」と今期の生徒たちに云いました。「昔、アニメは人間が手で描いてたの?」と孫たちに聞かれる時が来ると。  

 

 

※ 本文中で使用の「アニメ」はもとは「アニメーション」を省略したは日本語ですが、現在では、日本独自の発展を遂げたテレビアニメを指す世界共通語となっています。したがって本来の「フルアニメーション」とは区別して使用しています。

 

 

 

2017/05/31

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