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劇人形アルバム



ドン・キホーテ
1962年から約一年間あまり全国の高校巡回、各労組の催事などに呼ばれ、ざっと100回近くの上演を果たした。

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世界初のアバンギャルドな人形劇はそれなりのインパクトをプロ仲間にも与えたようで、旅先の公演地に主だったプロ人形劇団の先輩たちが観劇に訪れ、討論の場に招待され、それまでほとんど無名だった若者たちの人形芸術座は、少し名を知られることになった。




プロのふりして本物のプロへ

時間を少しさかのぼって1956年。私が人形劇の人形をつくるきっかけになったある出来事が起こります。

この年、大阪テレビ(OTVが開局します。全国からプロの人形劇団をユニットで出演させる世界名作ポケット劇場が始まる、というニュースを耳にしました。

当時、神戸に神戸小劇場というサークル劇団があって私もそのメンバーでした

劇団には
人形劇の経験者など一人もいなかったのですが、私たちはさも人形劇のプロ集団のようにふるまってオーディションを受けることになりました。

舞台美術の担当者だった私が、全く経験もないのに、当然のように人形を作ることになり、童話に詳しいということで脚本、演出も任された。

このような無茶をやってしまう若い劇団だった。


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オーディションの結果は大好評で、月に115分の番組ローテーションで出演が決まった。生放送である。

貧乏劇団は定期収入が確保されたので、大歓声を上げたが、すべては私の肩に掛かってきた。それまで人形劇団など覗いたこともなかった。私の人形劇メソッドは、大好きなイジー・トルンカと手塚治虫をイメージして始めるしかなかった。

手探りの劇人形作りは待ったなしだった。なにしろナマ番組だから失敗してもそのまま放送されてしまう。緊張の徹夜作業が続いた。もう後に引けなくなっていた。ポケット劇場は一年と少し続いたが、その間、作った人形は200体を超えていた。

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劇団から人形劇部門を独立させ、人形劇専門劇団にしようという提案が出された。
技術的にもプロの人形劇団員と呼ぶにふさわしい人材が育っていたし、彼らもまた職業専門家として生きていきたいと願い始めていた。運命の針が動きだした。


テレビで得た資金をもとに劇団神戸小劇場の創立者が書き下ろしてくれた作品、木こりのペールと魔法の笛を完成させ全国ツアーに船出した。名称は劇団神戸人形劇場とした。

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木こりの少年が仲良しの動物たちと力を合わせて、お城の大臣や家来たちから森を守るという物語は、子どもたちの大きな反応があり、それに押されたように先生たちやPTAの支持が全国へ広がっていった。

好評に乗っかって経営的には安定したが、何かもっと新しいことが欲しかった。

小さな作品を何本か試みた。

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人形劇にしかできない表現
ってなんだろう?人形の造形にも新しい何かが求められている気がした。

 

若者多くして劇団東京へ上る


神戸から劇団ぐるみ東京へ引っ越した。引っ越しの理由は重要じゃなかった。あえて言えば若さのせいか。若者たちはカバン一つで劇団のトラックには人形や道具を積んだままで東京に向かった。みんな独り者だったし身軽だった。一年中旅に出ていたせいもある。本拠地が何処でも変わりなかったのだ。


名称を人形芸術座に変更した。作品の内容も、今までになく何か飛躍的なことがやりたかった。観客対象も中学生以上の大人にも見てもらいたかった。未知との遭遇経験になるが、受けてたつ覚悟が必要だった。

その最初の作品がドン・キホーテだった。



前衛インパクトから大人の人形劇へ

ドン・キホーテで新しく開拓した観客層にインパクトだけでなく真の娯楽として大人の鑑賞に堪える作品をと、木下順二作の三角帽子を選んだ。

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ドン・キホーテでは人形劇独自の表現が面白くて、夢中で追い求めたが、今回は逆に書かれたセリフを一字一句変えずにやって見ようとプランを立てた。生身の役者の演技を想定した戯曲だが磨かれたセリフは、人形たちのセリフとしても完成度を増していった。バレー用に作曲されたフェリアの音楽も、舞台のイメージが想定されているので心地よく演出が出来た。観客動員数はドン・キホーテを上回った。




人形美術はラストステージへ


おとなに人形劇を観てもらいたいという悲願は達成されたが,子どもたちに観てもらうのも本来の仕事だった。しかし、私には切り替えの時間が必要だった。少し疲れてもいた。

さいわい肩代わりして引き受けてくれる演出家が現れた。作品はセルゲイ・ミハルコフ作、うぬぼれ兎

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私は初めて美術に専念することができた。私は張り切って原寸大のデザインを描いた。今まではイメージするだけで直接粘土彫塑に入っていたのだった。人形作りに専念!私は未経験のような充実感を楽しんだ。


そしてこれが私の最後の人形美術となった。





しばらくして私は、
人形劇団ひとみ座から作・演出家として招聘を受けた。人形美術家として最も尊敬する片岡昌先輩が、人形に関するすべてを引き受けてくれることになった。

人形づくりから解放された私は、作・演出に専念できるのが何よりもありがたいと思った。


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